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携帯の番号と名前が書かれた小さなメモをもらうって、なんて特別なんだろう。
10時から歯医者さんだった。前回予告の奥歯の治療。「思ったより浅かったので、これで終了です」と、一回の治療で完了し、ほっとする。「次回は歯石ですね」と、いつもの歯科助手の女性が歯全体をチェックしてそう言った。少しかがんでから、小さな声が耳元に問いかけた。
「これはプライベートなんですけど、近所に親戚とかいますか?」
え?
「旦那さんお亡くなりになられて…、もし何かあったら、良かったら電話してください。全然世話好きとかじゃないんですけど、でも、何かあったときに、近所ですし」
心底驚いた。そして、同じところから、じんわりが広がった。
奏くんもここに通っていて、治療も途中だった。歯医者さんに彼の死を伝えたのは、12月の末だったと思う。午前中最後の診療で、冬の柔らかな陽射しが待合室に差し込んでいた。長い治療が終わり、次回は3ヶ月に一回の検診、というタイミングで、治療のお礼を伝えてから、周りに他に人がいないことをさっと確認して切り出した。
死を知らせるのは、強いストレスがかかる。中でも最悪なのは、突然向こうからやって来るタイミングだ。心も言葉もグチャグチャでもうこの世の終わりかと思う。であれば、心と言葉の準備をして自分のタイミングで伝える。時期尚早かと迷うことがあっても、向こうから言われる可能性を潰せるのであれば。
その死を伝えれば、余波が来ることもある。ただそこまでは、今の私には心も考えも及ばすことができない。
「小西さん」
名前を呼ばれ、お会計をして次回の予約を取る。返された診察券には、小さな歯の形をしたメモ。携帯の番号と名前が書かれている。
「院長には内緒で。患者さんに携帯の番号教えてとか、怒ると思うんで」
院長は彼女の夫だ。笑顔の彼女につられて表情が緩んだ。
世界は優しさで出来ているのか。暖かな日差しに優しいシャワーを浴びる新芽のような気持ちになった。
もうすぐ、春だ。外に出て、手元のメモを見返す。彼女の名前が「春」ということを知った。