19:10
とても悲しい事のひとつは、奏くんとの新しい記憶がもう増えないことだ。
昨日は奏くんの20年来の友人、おだっち、真子ちゃん、連くんが家に来てくれて、たくさん奏くんの話をした。私たちの中心には、確かに奏くんがいた。例えそれが過去のものだとしても、話としてだとしても、知らなかった奏くんを知ることがとても嬉しいし、救われる。
「またね」を笑顔で交わして、車が角を曲がって見えなくなるまで手を振って、玄関に入ってドアを閉めて、一気に泣いた。
我慢していたんだな。
連くんの、「またこうやってみんなで集まろう」っていうのがやばかった、泣くモードに入らないように、いっぱいに気を引き締めた。もっと、奏くんがいる頃にみんなで遊んだりしたかった。もっと。でも、そもそもなんで奏くんがいないのだろう。
写真の中の私が、私を見つめている。お気に入りの一枚。あんなふうに、奏くんにぴったりと身を寄せてるのが好きだった。あの感覚を、視覚ででも良いから感じたい。
20:11
フォトグラファーである連くんにもらった、たくさんの奏くんの写真。もう一度、最初から最後まで眺める。連くんがいてよかった。こうして、かけがえのないたくさんの瞬間を、写真として残してくれた人がいてくれたことに心から感謝している。きっと、時間をかけて、過去の写真を見にいってくれたんだよね。心から、有り難う。
写真を眺めていて、奏くんがいかにこの10年間で体重を増やしてしまったのかを突きつけられ、改めて打ちひしがれる。
私、明らかに間違っていたよ。愛する人とできるだけ長く一緒にいたいのであれば、出来る限りの手を尽くすべきだった。健康に長く一緒にいるために、出来たことはもっとあった。本当に居た堪れない。ご両親だって、友達だって、そのことで私を責める人は誰一人としていないし、奏くん自身も、そんなつもりはないだろう。それでも、私自身はそれを過ちと思わざるを得ない。後悔で潰れそうになる。
「生命保険には入っていなかったの?」そう聞かれた。考えたこともなかった。当然、入ってもいない。子供がいないし、私は主婦ではないし。でも、そうか、世の中にはそういうものもあったな、と、自分の不勉強さに驚いた。
今日、みんなが来てくれて、何より奏くんがとても喜んでいると思う。みんなに会えた事もそうだし、Oくん真子ちゃんがベイビーEちゃんを連れて来てくれたのも。そして、私のことを心配しているだろうから。
奏くんに会いたい。会って抱きしめてほしいし、抱きしめたい。私を見てほしい。声を発してほしい。手を握りたい。触れたい。笑い声が聞きたい。愛してたよ。愛してるよ。今だってそうだよ。愛してくれてありがとう。もっと、もっと、安心させてあげられたら良かった。もう一度、出会ったあの日から、この10年をやり直したい。身体の奥底から強い衝動に駆られる。でも、もちろん、そんなことを考えても仕方がないこと、わかっている。
これから、私はどうやって生きていくんだろう。
四十九日だってまだで、そんなことはわからない。
とりあえずは、
- 今頂いているお仕事を全力でやりきって、
- 家の掃除をして、
- 自分の服、自分を表現するものを、一新して、(たぶんこれは、紀亜が来てくれた時に)
- 新しくスナフィとの関係を作って(しつけ教室とか?)、
- 歯医者さんで前歯を治療して、
- 髪型を一新して、
- Cafe NOLでの展示を進めて、
- そして、49日を迎えて、納骨をする。
- 新しい祭壇をつくる
- 携帯、SIMフリーにしたい
それがたぶん、向こう1ヶ月。やること多いな…。
何のために生きているのかって、考えても考えても理由が分からない
大きい答えを出そうとすると分からないけれど
小さい答えを出すことだったら。
「こういうのを作るのが面白い(から生きている)」
それが、たくさんたくさん重ねられていく。
それこそが生きることであり、生活なんじゃないかな。
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いつか、この「日常」を形づくるすべての人々が、この世界からいなくなる。「日常」は、とても脆い。日常が、日常で無くなる日は、意外とそう遠くなかったりする。
こうなってみて、本当に恋しいのは「日常」なのに、「日常」の写真は意外に少ない。
だからこそ、素敵に「日常」を写真に収めてくれる人に、これまで以上に特別なリスペクトと感謝を持ち続けたいし、自分でも撮れるようにしたい。
22:15
久々に、思い立ってインスタを見る。
フィードをかるーく流す。かるーく。
世界は、どんどんと前へ進んでいく。
取り残されたように、私がここにいる。
23:25
きっと遠くない未来に、亡き人とやりとりができる社会になるのだろう。
AIが進化して、その人を形づくる写真やテキストや動画や音声データが充実していけば、そんなサービスが出てくるのも時間の問題だろう。高齢化社会にもとてもマッチしている。いくつになっても、配偶者の死は、孤独との戦いだろうから。孤独に寄り添ってくれるのが、慣れ親しんだ愛する配偶者とのやりとりであれば、これ以上のものはない。いわゆる「現実と向き合って前に進もう」の障害になるという人がいるかもしれないけれど、目の前の寂しさは人を蝕む。過去データに基づいてAIが計算で出したレスポンスだとしても、それによって支えられ、ごはんを食べられ、眠りにつくことができて、そして、いずれ前を向くことができるようになっていければ。
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今年の奏くんの誕生日をはっきりと覚えている。カウンターに隣り合って座った奏くんは、奏くんの誕生日だと言うのに、やたらと私を褒めて褒めて褒めてくれた。いい女だと言ってくれ、尊敬している、すごいと思っていること、そして、「心から、全力で応援している」。だから、「好きなように思うように自由にやってほしい」。そう言ってくれた。
あなたの愛に、恥じない存在でいたい。
むしろ、その愛に生きたい。
奏くんの愛を受けて育ってきた私のこの10年。その花を咲かせたいと思う。
物理的に失われた奏くんと私の「あなたと私」「私たち」は次の段階へと進んで、それは私の内なるものになった。
奏くんは私のなかにいる。