1ヶ月目

世界は変わってしまった。だけど、世界は変わっていない。

8:39

午前四時に目が覚める。

夢の中ですら、奏くんはすでにこの世にいないことになっていた。

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なんて悲しいんだろう。

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せめて夢で、

せめて、夢で、

この現実と異なる世界が、そこにあっても良いのに。

12:50

そうだった。このパン屋さんの店内は流行歌がかかるんだった。

「そばにいて」

この日もやはり、切ない恋を歌い上げる声に音楽。喉が胸が締め付けられて、身体が強張る。トレイとトングをごめんなさいと返し、逃げるように自動ドアから立ち去った。自分の後ろ姿が、見えるようだった。

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音楽は、なかなか聴けない。

誰かを想い、強い感情を乗せ、歌い上げるそれは、あまりに地雷が多すぎて、耳にするのが怖い。かと言って、音のない空間では、頭や心に有象無象が縦横無尽に浮かんでは消えをやめない。それもそれで沈みがちになってしまう。

なにか流せるものはないかな。クラシックかな。「Quiet: Guitar」というプレイリストが目に入る。

ギター。

友人宅でのワンシーンが蘇る。友人たちのギターに合わせ、奏くんも弾き出した。Extreme の 「More than words」。ギターを弾けることを初めて知って、とても驚いた。一層惚れた。

「Quiet: Guitar」はやめよう。

代わりに、「Peaceful Music」をかけてみる。

日付に目をやる。今日で、四週間が経った。四週間前の土曜日。この時間は、ちょうど病院に向かっていた。

そういえば、ギターを弾く奏くんを見たのはあの一度きりだった。いつ頃の彼がギターを練習し弾き語りをしていたのだろう。彼を今さら、もっと知りたくなる。出会う前のことを、もっと前に、いろんな人に聞いておけば良かったな…。

「Peaceful Music」もだめだ。悲しくなる。

「Global Cafe」にかえてみる。

macOS Mojave をダウンロードする。いつの間に九月が来ていて、いつの間に新しいOSが出ていた。ずいぶん先のことだと思っていたのに。Appleの発表は、私たちの間で必ず話題に上がり、しばらくはその話題で持ちきりになる。でもこの九月のリリースを、彼は知らない。

たった一ヶ月。されど一ヶ月。時の流れを見せつけられる。

15:35

イチロー選手のインタビューやドキュメンタリーを連続再生で観る。観ながら思った。私の人生を生きる、私なりの、私にしか生きられない、ただ一つの人生を生き切る。ただそれだけだ。

まだまだ四週間。それでも、これだけのことが起こり、変わり、泣き、喚き、絶望し、立ち上がり、前を見て、歩き出したりもした。愛を知って、自分を知って、過去を受け入れ、支えられて、愛されて、それを認識したりした。ごはんを食べたり食べなかったり、鍼を打ったり、仕事をしたりした。そうやって、スナフィーとともに、四週間を、生きてきた。

世界は変わってしまったし、だけど、世界は変わっていない。

よく行くカフェで、作品の展示をすることになった。奏くんがいたら、きっと喜んでくれただろうと思う。ようやく、少し先の未来が見えてくるようになったよ。まだ四週間。でも、もう四週間。

20:59

亡くなってから一ヶ月、緊急手術で入院してから二ヶ月。

奏くんがこの家にいた記憶が、日に日に遠ざかっていく。

この家のそこかしこに、奏くんの記憶がある。だけども、遠ざかると同時に、その濃度が薄れていく。不在の空気は日に日に濃くなり、気配は、薄れていく。

そこにいたよね。ここにいたよね。いつだっていたよね。そう思ってみても、やっぱり気配は薄れていく。それを感じる自分の中に痛みを感じて、また悲しくなる。

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義母から電話があった。「気を使っているかもしれないから、こちらからかけてみたら」と、義父が言ってくれたみたいだ。会話の中で「零ちゃんは九割奏なんだから」と冗談っぽく言っていた。「ほぼ奏くんじゃないですか」笑って返した。

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今日は久々によく食べた。朝もお昼も夜も「ごはん」を食べた。夕方の散歩に出ていると、低血糖になっているのを感じるくらいに、またお腹が空いてきた。

戻ってきたんだ、食欲が。

そうだ。髪を切ろうと思っている。ようやくそう思えるようになった。何か、雰囲気も変えたい気がするし。でも、ただただ、そうしたいんだ。ただ、髪を切りたいんだ。

青から、温かくて優しい、愛と思いやりに溢れたメッセージをもらう。私の経済面を心配してくれている。仕事、ずいぶんストップしてるしセーブしてるからな。有難い。とっても。とっても。

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