8:41
目が覚めて、現実。
誕生日の余韻のなかにいる。あんなにも悲しくて、あんなにも涙に溢れた、誕生日の余韻。
お腹がちょっと痛い。
9:53
ひとりになる。
奏くんがマイクロドローンを飛ばし遊んでいたウッドデッキ。二人で作った家庭菜園のレイズドベッド。フリーランサー二人の生活に合わせた、この家。
ひとりでなにができるだろう。
11:00
スナフィーの散歩に出る。整体師の友人に言われたように、力がちゃんと地球に伝わるよう、意識を向けて歩く。
空腹を感じてお腹を触る。ぺったんこになったな。…お尻もだ。良くない。でも、今はしかたない。
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今日は、ひとりでいることを選択した。
隣でスナフィーが眠っている。散歩に行ってご飯を食べて、満足した様子で。
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友人と話し、昨夜の片付けをする。シャワーをするか、お風呂に入るか。犬の本でも読もうかな。お腹に優しい、煮込んだうどんを作って食べようかな。
誕生日が来て、またひとつ、歳を重ねた。私は生きている。
今回のことで分かったんだ。
人は突然いなくなる。突然死んでしまう。たくさんのものやことを、そのままに遺して。
そして、そのときは、ひとり。
その瞬間の奏くんは、何を思ったのだろう。想像しようとすれば、胸が張り裂けそうに苦しくなる。「でもすぐに眼が反転して」。看護師さんのその言葉に、少し救われる。
緊迫した病室内。心肺蘇生をする先生。周囲の看護師さんたち。中心に横たわる奏くん。何が起きているのか。何が起ころうとしているのか。ただただ目の前にしていた。
受け止めようとしてたのだろうか。把握しようと、理解しようと、していたのだろうか。
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カウンセラーで死生学者のウォース・キルクリースによれば、伴侶やパートナーといった親密な「ふたり」には、「あなた」「私」そして「私達」という三つの存在があり、「あなた」を喪うことは、同時に「私達」をも喪うことなのだという。また「私達」の喪失は、遺された「私」のアイデンティティーをときに大きく揺るがすものとなると。(Kilcrease)
19:05
自分の置かれている状況が、なんだかよくわからない。誰といても、この痛みが完全に癒ることはない。側に寄り添ってくれるみんな。私は誰の一番でもない。みんな、誰かのもとへ帰っていく。そんな当たり前のことに、余計に苦しなる。そんな自分に気づいて、また悲しくなる。
いつか、このひたすらに重く苦しい日々が終わるんだろうか。
重たい身体を動かして、夕ご飯を用意する。昨日みんなが作ってくれたいろいろを並べる。そして白ワイン。テレビとかつけると良いのかな。テレビに嫌な表情と空気を出していたあの頃の私が私を責める。待って。今の私ならわかるんだよ。ひとりの時間は寂しいんだよ、テレビもつけたくなるんだよ。どうして分かってあげられなかったのだろう。ごめんね。ごめんね。
たくさんの、ああすればこうすればがよぎる。そんなことをしても、もう意味がないことも、もちろんわかっている。
ダメだな、これだと胸が詰まってごはんが食べられなくなっちゃう。サラメシかクィアアイを見よう。
21:08
Netflixでクィアアイを観終わって、現実に戻る。
ひとりだった。
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奏くんは、百万%、生きたかった。
義父母を遺していきたくなかったし、私とスナフィーと、この家で、満たされていた暮らしをこれからもずっと送っていきたかった。もっとサーフィンをしたかった。写真もたくさん撮りたかった。健康なライフスタイルを送りたかった。
ここで生きている私は、なにができるだろう。
静かなこの家。静けさが辛い。音楽は聴けない。ドラマは欲しくない。頭も痛くてワインもこれ以上飲めない。眠りたいのに、こんなにも心がざわついている。
頭が痛い時、奏くんはいつも気遣ってくれた。薬が飲めるようさっと食べれるお粥やうどんを作ってくれたりと。いつだって、私が良い状態にいれるよう、心を配り、動いてくれた。
あれから三週間目の土曜日が終わる。もう三週間。まだ三週間。この先、…。
いや、先のことは、今はまだ考えなくて良いよね。きっと。