1ヶ月目

おかえり

5:00

自宅に着いた頃には、すでに明るくなっていた。

この日何度目かの「準備ができました」の声に、部屋に入る。玄関を入ってすぐ右手にある、奏くんの仕事と趣味の部屋。

床や暖炉の濃い木目色を基調に、緑鮮やかな観葉植物がアメリカンでポップな黄色い大きなスタンド(蓋付きゴミ箱)の上に乗っている。その手前に「準備」された真っ白の布団。あまりの不調和に、まるで浮かんでいるみたいだ。布団中央部はやけにこんもりとしていて、季節柄ドライアイスがたくさん入っているらしい。胸元には、悪霊から守ってくれるという守り刀が乗っている。促されるままに、用意された枕飾り(仮祭壇)でお線香を上げた。そこにあったのは行為だけで、意味はなかった。

奏くん。

顔は白っぽく、目はぴったりと閉じられていた。唇もやっぱり白く、血の気は無かった。そして、やっぱり、冷たかった。奏くんの額は私の手のサイズに合わせたようにぴったりだ。額に手を当てぴったりさを味わってから、額を、髪を、撫でた。

おかえり、奏くん。やっと帰ってこれたね。

「この後ですが、」葬儀屋さんが切り出す。葬儀の打ち合わせと、「ご遺体」の葬儀式場への搬送をいつにしましょうか。

どのような状態だとしても、ずっと側にいたいし、いて欲しい。だけど。夜になって、皆が帰って、この家に奏くんと私(とスナフィー)だけになったら…。無理だ。正気を保てる気がしない。17時には目黒の葬儀式場へ搬送されることが決まった。

朝七時を過ぎると、報せを聞いた自宅近辺の友人たちが最後のお別れに来た。目黒は遠い。自宅近辺の友人たちには、ここにいるうちに会いに来てもらえたらと朝早くから連絡をし、その全員が時間を作って会いに来てくれた。それぞれが奏くんとの時間をそれぞれに過ごし、義父母に奏くんとの思い出話をした。この時間を持てたことを、心から良かったと思った。

お昼頃には来てくれた、奏くんの幼なじみ、ケイくんに加えて、親友のひとり、おだっちにも電話で伝える。二人に連絡をすれば、奏くんの交友関係のほとんどに届くはずだ。連絡先を一本化できることでどれだけ助かったことかわからない。

連絡だったり、来客対応だったり。目の前には今やるべきことがある。それに救われていた。

16:00

都内では亡くなる人の数に火葬場が追い付いておらず、火葬するまでに数日から一週間、長いと一〇日ほど待たされることもある。打ち合わせに戻ってきた葬儀屋さんが、最近の火葬事情を話す。「四日後に一枠空きがありますね」の声に、葬儀は六日の木曜日に執り行うことが決まった。

「喪主はどなたが」

「私に務めさせてください」

迷いは皆無だった。義父母も、それが自然なこと、というように、にこやかに私を喪主にしてくれた。

未だ茫然自失に近いけれど、あなたを送らなければいけないのであれば、私がその主となれたら、それはどれだけ光栄なことだろう。

都会型の寺院墓地だ。葬儀式場となる客殿は、立派だけれど収容可能人数が30人。それに合わせて、参列者は30人想定になった。友人の多かった奏くん。親族を含めてその人数で良いのだろうか。葬儀費用への不安に相まって、「なんだかわからない気持ち」が、30人想定に留まらせた。言葉にすれば、「大事(おおごと)にしたくない」。本当はこんなことしたくない。みんなで奏くんのお葬式をやるだなんて、それをしてしまったら本当に…。

祭壇、お通夜、火葬中の飲食、火葬後の会食、香典返し。目の前に「今決めること」が次々に出てくる。相場も分からなければ、検討する時間も無い。もう、必要最小限で、やらないといけないことだけにしたい。

義父母の基本スタンスは「喪主である零ちゃんの選択を尊重する」。その上で「食事は親族だけでいいと思うわ」とか、「これは無くてもいいんじゃないか」とか、負担がかかり過ぎないよう要所要所で導き支えてくれる。これ以上の理想があるだろうか。

一点だけ、意見が割れたところがあった。遺影だ。

義父母は、実家で撮った一枚を推した。スナフィーを抱き優しい笑顔でこちらを見ている奏くんだ。私の推しは、私の誕生日の朝に自宅で撮った一枚。にっこりと笑う得意げな奏くんは、…トーストを持って、…頭にタオル(トンボ柄)を巻いている。

「ワンちゃんはPhotoshopで自然に消すことはできると思うんですけど、頭のタオルは…、photoshopしたとしても仕上がりが少し、髪型がヘルメットのようにならないとも…、ね、どうですかね…」

分かってる、分かってるんだけど、…この笑顔が好きなんだ!この笑顔が、私の大好きな奏くんの笑顔なんだ!

日付を見ると、2014年だった。四年も前だ。そんなに長いこと、次の推しが出てこないほどに写真を撮らなかったのか。激しい後悔に目眩がした。

遺影は、スナフィーをphotoshopで消す方向に決まった。

17:00

再び白い布に包まれた奏くんが、プロの手で、搬送の車に乗せられる。義父母と、ケイくんと二人の子供、私の親友夫婦のジョシュと沙子(さこ)、私はその一番奥でスナフィーをぎゅっと抱いて、その様子を見つめていた。

裏に住むおばあちゃんが、窓ガラスの向こうからこちらを見ていた。

車の扉が閉まる。この家に、もう二度と帰ってくることはないのだと。言葉にすれば、そういう絶望感かもしれない。連れて行かないで。叫びに近いそれは、言葉にも、声にもならなかった。

23:00

ここ一ヶ月で少し慣れたはずの、奏くんのいないベッド。でも、決定的に違う。隣では、仕事が終わって駆けつけてくれた茉奈とスナフィーが眠っている。沙子が眠る隣の部屋から、小さな物音が聞こえた。

奏くん。心でそう呟いただけで、涙が溢れて止まらなくなる。目に映るすべてに、奏くんの存在があるのに。なのに、もういない、だなんて。「もういない」なんて、思いたくもないのに。

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