8:40
目が覚めて、メールチェック中に思い出した。
奏くんの夢をみたんだ。
奏くんがそこにいる。「死んでなかったんだ!」って、ぱーっとときめいた。これからは食べることと血圧とをしっかり気をつけなきゃね!そうだ、お義母さんからもらった血圧を簡単に測れるやつがあるよ。
そんなやりとりだか一方的に言うんだか思うんだか、そんな夢だった。
この夢は、私の内で完結している夢だ。どこともつながってはいない。見たことすら、すでに少し遠くなっている。
夢。私がみた、夢。
18:13
今日が初日のアシスタントさんが帰り、スナフィにご飯をあげた。
思い出される、9月2日の未明。大動脈が破裂してすでに時間が経ち、ドクターの数時間に渡る心肺蘇生によってのみ、心臓がかろうじて脈を打ち続けている。それを止めれば、「生きている」証拠は消滅する。破裂した箇所から血液が体内に出続け、ベッドの枕元にある2本目の容器に血がみるみる溜まっていく。その中心で横たわっている、奏くんの身体。
たった数時間前まで、会話もしていたし、ごはんも食べたし、一緒にいたのに。
「血が、血が」という、最後の訴え。見てもいないのに、まるで見たかのように、そのシーンは鮮明に脳裏にこびりついて、こうして度々私を苦しくさせる。見てもいないのに。
心肺蘇生に上下する奏くんの身体を見ていた。
1回目はひとりで。2回目はご両親と。たったの2回。身体のその最期の動きを、数時間のうちに、たったの2回。時間にして、数分。
通い慣れた病院の個室。慌ただしく懸命に蘇生をかける医師や看護師たちの邪魔にならないように、ベッドから2mほど離れたところから、彼らの合間から、対面していたその姿。上下する身体。腹部、腕、手、足。顔は、見ていないんだ。
「ご対面できる準備ができました」。呼ばれて入った先には、すっかり整った姿で横たわる奏くんの身体があった。その顔は、その時初めて、目の前にした。
一生、この苦しみを抱えて生きていくんだと分かっている。頭も、心も、身体も、それを、受け入れている。それを受け入れることをただ積み重ねていくだけなのだと、わかっている。
ただ、「その時」の、その死のときの、彼の苦しみを想像したりすると、もう、…(私は停止してしまう)。愛する人の強烈な苦しみほど、苦しいことはないんじゃないかと思う。
青が言っていたように、あの恵比寿の街のあのロッカー前を通り過ぎるたくさんの人々、そのただのひとりも、100年後には生きていない。
無常観。
受け止めて、それと共に、生きていく以外にない。
自分を生きる、生き抜く、それ以外にない。
でも時折、それもなんだか虚しく感じるときもある。時折。
「死」とその喪失を、真っ正面から全身で受け止めるその初回が、奏くんだなんて。苦しみに、言葉がない。
4ヶ月を前にして今わかったことは、いつまで経っても、この苦しみは変わらずに、抱えていく以外にないんだということ。直後のショック状態は、明らかに脱している。でも、苦しみは、なにも変わっていない。なにも。変わらないことなんて、ないと思っていたのに。
猛烈に苦しい。「悲しい」なんて、「寂しい」なんて、かわいい感情だって今日は思う。奏くんの苦しみやもっと生きたかっただろうと想像する時が、最も苦しくなるかもしれない。どうしようもなくなって、息が詰まりそうになる。でもそれだって、自分のただの想像、妄想、幻想にすぎなくて、果たして本当にそうだったのかなんて、やっぱりわからない。
今朝の夢なんて、本当に最悪だ。見たことにすら腹が立つ。「死んでないんじゃん、これからは、食べるものに、血圧に気をつけようね、この血圧計があるしね」だなんて。なんてひどい夢なんだ。私が見得る、最悪の夢のひとつだ。