16:37
スナフィと散歩をしながら、思い出のなかにいた。
完全在宅ワークの奏くんは、いつだって私を駅まで送り迎えしてくれた。週5のときだってあったけれど、一度たりとも、そこにいなかったことは無かった。10年間、一度たりとも。
一方で、完全プライベートの用事ではひとり車で駅まで行くこともあった。そんな時の帰り道にも、最寄り駅に到着する時間を連絡するのは忘れない(彼から学んだ習慣だ)。車を停めて、玄関に向かう。わかっている。玄関横にあるガラス窓の向こうには、彼の愉快な表情(変顔とも言う)が張り付いて笑っていることを。ほら。表情の緩んだ私を見て彼は笑い、嬉々としてドアを開け「おかえり」と迎え入れてくれる。お決まりのやつだ。
頬を抜ける北風が冷たい。スナフィは足取り軽く、枯れ草色の田んぼ道を先へ先へと進んでいく。
ひとりでいたあなたが抱えていただろう寂しさに、今さらながらに、気がついた。あなたがいなくなって初めて、ひとりでいる時間ばかりになってようやく。なんて愚かなのだろう。
窓から覗く愉快な表情。嬉々としてドアを開ける姿。
その行為の根本にあった感情に、思いを寄せてみることがどうしてできなかったのだろう。
歩きながら、涙が出てくる。
もう一度、やりなおせるなら、…
もう日は沈み、西の空をオレンジ色が地平の輪郭を取っている。暗くなる手前のブルーに、薄くて白い月が浮かぶ。
でも、過去に戻ることはできない。
もう二度と、大切な誰かの寂しさに気づけないなんてことがないように。でも一体どうしたら良いのだろう。もう二度と。もう二度と。
奏くん、私を導いてください
私たちの家が近づいてくる。玄関ステップに足をかける。ひとりと、スナフィで。
玄関横の窓の向こう側。
自分の手がドアを開けて、自分の手がドアを閉める。
声をあげて泣いた。
17:45
明晰夢とは、眠っているときに見る夢のなかで、「これは夢だ」と自覚しながら見ている夢のことだ。自覚ができれば、意識を向け意志を持って動くことができるという。
青は、明晰夢、彼女の言葉で言えばルシッドドリーム、ルシッドドリーミングのプラクティショナー(実践者)であり、私のソウルリトリーバルセッションのコーチでもある。11日の彼女とのセッションでは、明晰夢について教えてもらっていた。その時のメモを読み返す。
- 夢を見る本人が、カルマから解き放たれてなければ、自分の欲望を満たす夢になる
- その中で自分が満たされていないものを満たすのは大事なステップ。痛みからの解放や、やり残してたことをやるとか
昨日の明晰夢から得たことは大きかった。
奏くんを目の前にして何より伝えたかったのは、「今も全身全霊で愛している」という想いだった。「ごめんね」でも「ありがとう」でもなく。しかも「好きだよ、大好きだよ」といういつもの言葉にのせて、私のすべてで伝えることができた。
その純粋さに、自らの愛に、自分自身が救われたように思う。
その上で、奏くんからも同じような想いを、いや、愛を、受け取ることができ、それを全身全霊で味わうことができた。
夢の中で、自分の意識がある状態で。
今の私にとって、これほどの幸せがあるだろうか。
ごめんねとか、ありがとうとか、そういうことじゃないんだ。愛している、という、想いなんだ。
青が言っていたように、「自分が満たされていないことを満たすこと、伝えられなかったことからの解放」がまさにこの身に起こっていた。
寂しくて、恋しくて、泣いてばかりだけれど、その涙の純度はこれまでにないほど上がっているというか、おかしな表現だけれど、涙に血が通っている、気がする。
「そりゃ快挙だね!」
昨日の明晰夢を青に伝えると、すぐにそう返事が来た。
「1回の明晰夢で心理的な部分と向き合うのには、5-6年のセラピーに匹敵するとも言われている。」
明晰夢を見るのはセラピーのためにやるものでは必ずしもないけれど、その側面は十分にあり、それは「そもそも死の準備のためのものである」ことも教えてもらう(ここはいつか分かる時がくるだろう)。
今この瞬間も未だに、あの明晰夢の余波のなかで生きている。それほどまでにパワフルな体験だった。
だけど不思議と、もう一度、とは思わないんだ。
それはあまりに「私」を超えている。
この生身の「私」が、思える、願える、欲する範囲にはまったく無いことは、明らかだから。