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「事実」は、「真実」は、あるのだろうか。
義母が、奏くんの子供の頃の話をした。
「自由にやらせていたのよ。習い事は、周りの子たち皆やっていて、それにつられるように奏も始めたの。」
奏くんから聞いていた話が、それと並行して脳内再生されていた。
やらされたピアノや水泳がストレスで、水泳は選手コースで体罰すら日常茶飯事。その鬱憤から、おもちゃ屋さんからおもちゃを盗んでいた、と。枕の下は隠したおもちゃでいっぱいになり「結局バレた」。教育ママっぷりに対抗し「真逆に振り切ってしまった」。その経験があるからこそ、「自分が好きなことをするのが1番。そしてそれをリスペクトしないと」と奏くんは言っていた。
何が真実なのかは、重要ではない。
そこには、ふたりの真剣な向き合いがある。そこには、それぞれの言葉が、感情が、行動が、そして相互への影響があり、解釈が、意味付けが、ストーリーがある。それぞれに。
正確に「語る」のは難しい。
真実や事実、として受け取るよりも、事実をもとにした(誰かの)ストーリー、として受け取ろう。
これもそうだ。私が遭遇した事象と、そこに向き合うなかで生まれた、内に起こる感情や思考、自分の有り様を、手に取りスケッチした観察日記、のようなものだろうか。