12:24
もっと生きたかっただろう。
そう思うとき、特に苦しくなる。
奏くんはこの暮らしに満足しているようだった。
「零がいて、スナフィがいて、この家があって。満たされている。他には何もいらない。」
そう言ってくれたあの日のシーンを、もう何度、反芻したことだろう。
それがどれほど、救いになってきたことか。
「奏は幸せだった。零ちゃんがいて、あのお家があって、好きなものを食べて好きなようにやって。太く短く生きて、幸せだった。」
義母は、これまで何度も、いつもの弾けるような笑顔でこう言った。義父は隣で微笑んで、その度に「そうだよ」と何度も頷いた。
これがどれほど私を救ってきているか、言葉には到底表せない。
それでも。
もっと生きたかっただろうと、また今日も思ってしまうのだ。
そしてまた、私の中心にはぐぐっと力が入る。固くなって、息が詰まって、血流が滞りそうになる。苦しい。この思いが、この苦しみが消えることは、これからもないのだろう。抱えて生きていく、ただそれだけだ。
もっと生きて、どうしたかっただろう。
何がしたかったとか表面的なことではなく、なぜそうしたかったのかという本質まで辿り着きたい。それを私の中に取り込んで、私が、そう生きていけるように。そうすればきっと、底の見えない沼のように苦しみが溜まっていくのではなく、川の流れのように、自然な流れとしてどこかに向かえる、どこかにたどり着ける、のではないだろうか。
15:30
季節外れの暖かい日差しを受けて、遅いお昼ご飯にする。伊勢うどんに、小ねぎ、ごま、のり、かつおぶし、それにかんずりを入れて。やわらかいうどんは奏くんの好みではないけれど、「これは意外と良い」と言っていた。
サラメシをつける。
サザンの曲がインストゥルメンタルのBGMでかかる。一気に動揺する。突然見舞われた大嵐。大海をなんとか穏やかに進んでいた小舟は、あっという間に転覆寸前だ。
音のトラップはこわい。
特に、歌詞のある曲は未だに一切聴けない。感情が揺さぶられ転覆しそうになるのが怖いのだ。一生避けて通らせて頂きたい。ましてや奏くんを、いや、奏くんしか思い出さない例えばサザンとかは、もう一生聴けないんじゃないだろうか。一生、聴きたくない。
街やテレビで耳に入ってくる機会も含めて、もうゼロにしたい。
なんならもう国外脱出したい。
救急車の音や、音楽。私を「国外脱出したい」とまで思わせるのは、「音」の存在だ。心臓が動くのをやめても、耳のみは、その最後まで聞こえているとどこかで聞いた。音と耳の存在は、思っている以上に大きいのかもしれない。
17:07
Loneliness is killing.
あの直前の2ヶ月。今年の6、7月のこと。
出張が続きカレンダーがびっしりと埋まった猛烈に忙しい日々。家でゆっくりする時間はほとんどなかった。「忙しい」は「心」を「亡くす」と書く。私の心も頭の中も、家にも家族の元にもほとんどいなかった。
あの頃、きっと奏くんは寂しかったのだろう。
今になってようやく、その寂しさに思いを寄せることができる。
あの頃にできていれば…。
一方で、その頃の忙しさがあったから、つまりはその頃にたくさん仕事をして稼いでおいたからこそ(フリーランスだから)、続く8・9月には仕事量を大幅に落とし奏くんに注力することができた。それだって、紛れもない事実だ。
頭に浮かぶことをこうして並べて、揺れ動く感情もこうして並べて、ただ、眺める。出してみて、眺める。認める。受けとめる。受け入れる。抱きしめる。
オーディオブックでは「サピエンス」を引き続き聞いている。すごい面白い。
人類、サピエンスがいかに動植物を滅ぼしてきたのか。しかも、農業革命の起こる前にもよっぽどたくさんの動植物を絶滅に追いやったことを知り、ショックを受けている。地球における人間という存在の影響力の大きさに、心から驚いている。この近代技術を手にしてからの影響力かと思っていたけれど、間違っていた。オーストラリア大陸、アメリカ大陸、無数の島々。絶滅した動植物の痕跡は、その地にサピエンスが上陸したのに時を同じくする。近代技術ではない。サピエンスの存在自体、たぶん、サピエンスの「集団」自体が、この地球上では他の動植物を食い尽くしてしまう存在なのだ。
そのことに衝撃をうけている。
足元に目をやる。10年をともにした私たちの時間。相互への影響は大きい。
自分が及ぼす影響の範囲を、どこまで認識できていただろう。
そこと、ここは、繋がっている。