19:49
叫びたい気もする。ストレスが溜まっている。
スナフィがいなかったら、この家にひとりで住み続けることは不可能だった。足元でぴったりと眠っている彼を撫でる。薄目を開けて私を見上げ、また目を瞑った。
新しい現実。
慣れる、適応する、作る。練習と実践。トライ&エラー。それを重ねていくことでしか、この苦しみに押しつぶされそうな日々からは抜けられないのだろう。
24:24
ここ最近は、驚きの心身バランスだ。過活動気味でずっと動いている身体。おかげで、洋服の量は1/10になり、物事は「進んで」いる。が、一方で心は、とてもとても落ち込んでいる。
落ち込んだ心は、「光」を求めている。
直島にある地中美術館。常設展示のモネの「睡蓮」の飾られた真っ白なその光の空間。その美しい空間に足を踏み入れ、心身がそれを感知したときのあの感覚は到底言葉にはできない。あの感覚を、今ただ求めている。
美しい瀬戸内の中にアート作品を置くことによって、「豊かさとは何か、「よく生きる」とは何かを考えられる場所を実現する――そのためにどのように「睡蓮」を見せるか、作品と空間を一体とする検討が重ねられました。
本当の豊かさとは何かを考える場所 地中美術館「クロード・モネ室」
「生きる」を問い直している今の私がそれを思い焦がれているのは、その空間の存在や意義というものを物語っている。
白い壁面、丸みのある部屋の角。満ちる自然光。靴を脱いだ足裏から感じる、大理石の気持ち良さ。その光の空間に、その中に、今すぐにでも行ければ。
現実問題、そこに行けば、自然と奏くんの思い出を辿ってしまうだろう。最悪、戻ってこれなそうだ笑。これは誰かと行こう。誰か、はすぐに浮かんできた。紀亜だ。早速聞いてみると、早々に返事が来る。
「一緒に行こう!冬は空いてそう。空いてる時がいいよね。モネの部屋のことはたまに思い出すよ。
掃除してるのね。荷物軽くして心を軽くしたいんだね。
ちょっとお家を離れる旅行はいいかもね!私はいつでも大体同行できるよー」
心を軽くしたいんだって言われて、それもあるのに気がついた。
“Letting-go ceremony / practice”。手放す儀式やその練習。
「もうここにいない」という、喪失の現実に追いついていない自分がそれを受け入れるということ。グリーフワークと呼ばれる、喪失の悲嘆のプロセスだ。
その道程には、手放す儀式や練習の試行錯誤が積み重ねられる。直接的間接的に関わらず、様々な物事を、儀式や練習の形をとって手放していく。感謝を伝え、掴んできたその手を放す。ワードローブの一新はその最たる例だし、ここに書いていることもそうだろう。
いつか、それを重ねたその先に、喪失を受け入れた姿があるのかもしれない。
紀亜がいつもの調子で言葉をかけてくれる。
「なるように、なっていくから。心もそのうち安定する日が来るだろうし。長い道のり let go してlet’s go!」
クローゼットを開ける。文字通り1/10になったそのがらんと感に、思わず笑ってしまった。紀亜の言うように少し軽くなったみたいだ。