7:41
奏くん。私、三十七歳になったよ、誕生日だよ。奏くん。
一緒にいる日々をもっと大切に過ごせなかったことを、やはり後悔してしまう。
昨日は紀亜と次の作品について話していた。ゼロから考えてつくることを想像する。真っ暗なこの先に、白い光が見えた。ずっと暗いところにいるんだな、と、改めて認識する。
9:54
カウチを整えて、好きな香りをスプレーして、キャンドルをつける。そして、音楽をかけてみようとアプリを開く。慎重に、慎重に。感情の波に小さな揺らぎすら与えない、できる限り無難なものを。クラシックか、イージーリスニング系のジャズか。あの日以来初めて、音楽をかけてみることができた。
肌寒さに奏くんのフリースに身を包んで、八月最後の日々を思い出す。あなたがこの家に帰ってくることを、信じてもう疑わなかったよ。ああしようかなこうしようかななんて考えて、その前提で暮らしていたよ。信じていたんだよ。
13:46
私の手には大きい、奏くんのiPhone。パスワードは今日の日付、私の誕生日。ロックを解除して写真を開く。上へ上へと遡って、初めて一緒に暮らした葉山での日々に浸る。幸せだったな。家というより、葉山という地に暮らしていた感覚。二人の日々からスナフィーが加わっての日々を、自転車で、車で、いろんな場所に行っていろんな美味しいものを食べて、最高に楽しんでいた。
あ。
気がついたのだ。写真のなかに、たくさんの私がいることを。思ってもみなかった。奏くんの目に、こんなにも私が映っていた。こんなにも私を見ていてくれた。
「当たり前」だったかもしれないこと。そのかけがえのなさ。「当たり前」でなくなったこと。喪失感に沈んでいきそうだ。途方に暮れるとはこういうことだろうか。
すごく会いたい。ここにいてほしい。会いたい。「今ここ」にいてほしい。会いたい。もう一度。一緒にいたいよ、一緒に暮らしたいよ。なんだかよくわからないよ。わかっていない。わかんないんだ。ここにいない、ここにしばらくいない。初めての「しばらくいない」の日々が、今日も続いているし、明日も続く。その連続でしかない。よくわかんない。よくわかんない。今日は、私の誕生日なのに。生涯を「共に一緒に」って、あの日誓ったのに。指輪にもそう彫ってあるのに。たった一〇年しか一緒にいられなかったなんて。やっぱりよくわかんないよ。
奏くんの前に座ってひたすらに泣いた。隣の部屋で起亜が昼寝をしている間ずっと。
24:18
「奏くんはどこにいったの?」
無邪気に問いかける四歳に、時が止まった。花束のガーベラを活ける手が。全員の表情が。
大野さん一家四人と梨衣ちゃん、それに起亜。誕生日を祝いに集まってくれた総勢六名、うち二名は幼児。限界はすでに近かったのだ。
泣き崩れて、ひとり部屋に退散した。もう戻ることなんてできなかった。梨衣ちゃんの優しい「帰ってもらう?」に、最終的には頷いた。ドアが閉まる音がして、ここは急に静かになった。御礼も何も伝えることもできず、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、涙は止まらない。
やっぱり無理してはいけない。
無理ができない。
奏くん、奏くん、奏くん。泣きながらその名を呼び続けていた。あなたが今、ここにいてくれないと。ずっとこうして、呼んでいるのに。せめて夢で会えたら良いのに。奏くんの健康に真剣に対処しなかったことへの後悔に苛まれる。悔いてなにかが変わるのであれば、その気持ちを解放してひたすらに悔いるのに。
こんなに取り返しのつかないことになるのだから。