1ヶ月目

6:03

「九月一〇日」と書いた文字に驚いた。あの日からもう八日が経つ。奏くんとの日々が、奏くんが、八日分、遠くなった。

もっとぐっすり眠りたい。ただひたすらに、もうずっとずっと、眠っていたい。

目が覚めると隣のベッドは空っぽで、そこに奏くんはいない。部屋にも、リビングにも、家のどこにも。これまでになかった物理的な不在。そのことに、少し慣れている自分がいる。奏くんが倒れた八月一日から一ヶ月間の入院中に、徐々に慣らされていったその不在。

奏くんの友人たちには訃報を伝えた。お別れの機会のために。でも、自分の友人たちにはその死を伝えることすらしていなかった。それを口にしたら、本当になってしまう。

昨日、やっとのことで葬儀参列へのお礼を何人かに送っていた。イチくんにも。出棺を待つその人波のなか、言葉交わさずとも、目があったそこで受け取った感覚を、今も鮮明に覚えている。彼から返信が来ていた。

「僕にできることは、そばにいるよ、いつでも、いつまででもサポートするよ、と表明することなのかなと思いました。(目があえて、本当によかった…)多分きっと、まだまだ整理とかそんな状況ではないと思いますが、僕らはいつでも、力になります。これからも、これまでどおり、いつでも支えます。支え合いましょう」そのメッセージは、奏くんの安らかな休息への祈りで結ばれていた。

「そばにいるよ」そう表明するために、あの場にいてくれたのだ。あの時のあの感覚が波のように、意味を持って、再び打ち寄せてきた。身体が震えた。

奏くん。見えているかな。届いているかな。私、こんなにもたくさんの人に支えられているよ。想われているよ。愛されているよ。あたたに愛されて今の私がいる。たくさんのことを教えてもらったね。心から感謝しているよ。生きている間に、ちゃんと伝えられなかった。伝えたかった。ごめんね。

6:55

体が疲れている。昨日からの泣き疲れかな。

8:59

スナフィの散歩から戻る。奏くんの祭壇の前に座って、ひたすらに泣く。泣き疲れて、涙が止まる。ぼーっとして、しばらくしてまた、ひたすらに泣く。

「スナフィのことは任せた」。散歩をしながら、奏くんの言葉を思い出していた。入院から四週目くらいだったか。「そんないまさら、もちろんちゃんとやってるよ。朝も六時とか七時とか涼しいうちに散歩に行っているし、スナフィは毎食フードをちゃんと食べるんだよ」(おやつの上げすぎでフードを食べない時があった)。そう答えた自分。もう少し、奏くんがほっと温かい気持ちになるような返しがあっただろうに。悔やまれて目線が落ちる。

追い打ちをかけるように、九月一日の面会の光景が続く。

正午頃到着予定、という私の連絡に合わせて、お昼ごはんを車椅子で食べるというリハビリに奏くんは初挑戦していた。ところが私は現れない。車椅子に乗った姿を見たことがない私にその姿を見せようと、彼は一時間半もの長い時間、車椅子の上で私を待っていた。術後悪性高熱症という合併症によって全身の筋肉が壊れ「筋肉がすべて一度リセットされた」奏くん。この頃ようやく「座る」体勢のリハビリを始める段階に来ていた。iPhoneを持つことすら、便器に座ることすら、難しかったのだ。私が病室のドアを開けた頃には、予定時刻から一時間以上が経っていた。そこには、ベッドに体を横たえテレビを眺めている後ろ姿があった。顔は見えない。車椅子に乗ったその姿を、私は一度も見ることができなかった。

「『血が、血が』と最期に血を吐いて」。見てもいないその光景が、何度も目の前に覆いかぶさる。見てもいないのに、なんでこんなにも鮮明なのだろう。激しい感情。自分への激しい怒り。吐きそうなほどの後悔。底無しの哀しさ。

今日は月曜日。ちゃんとゴミを出した。毎日、誰かしらが家に来てくれることが、家の正常を保ってくれている。

今日は月曜日。みんなみんな、それぞれの日常に戻っている。

十三時に打ち合わせを入れておいて良かった。どこまでパフォーマンスを出せるかは分からない。相手は沙子とジョシュだし、オンラインだ。何とかなる気がする。それに、他のことに意識が向かう時間がある方が良い気もする。

昨日は大学時代の友人と四時間近く電話で話した。こんな時でも、つまりはどんな時でも、そこに大切な人がいれば、その人の笑顔を、喜ぶことを、少しでも楽になることをいつだって望むし、そのために力が湧いてくるものなのだと知った。

10:20

雨が降ってきた。夏の青空と白い雲の下にいた昨日、雨だったら良いのにと思っていたんだ。

奏くん。奏くんがいなくて寂しいよ。寂しくて寂しくて寂しくて、どうにかなりそうだよ。奏くんがいないこの日々。これまでの日々とは切り離されて、まるで何事もなかったように時が進んでいくみたいで怖いよ。

奏くんが帰りたかった家で、奏くんが会いたかったスナフィと、奏くんが生きたかった日々を生きているんだ。だから、ここで、ちゃんと生きなくちゃいけない。泣き崩れ泣き止んでまた泣いて。ひとりでいるとその繰り返しだけれど、でも、あなたが生きたかった人生を、あなたのためにも生きるから。

24:46

梨衣ちゃんと大野さんが来てくれていた。「良いパパ」の話に心が少し苦しくなったくらいで概ね大丈夫だった。でも、分かったことがある。一緒にいられるのは、誰かひとりが限界かもしれない。今の私に二人は多すぎて疲れちゃうんだ。

そろそろ、奏くんに夢で会えても良いのにな。まだなのかな?

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