22:30
明かりを落としたベッドルームで電話が鳴った。
「成田赤十字病院」
黒い画面に白い文字が浮き上がり、息が詰まる。電話に出る。口が渇いていた。
「ご主人の容態が急変しました。今すぐ病院に来てください」
慌ただしく家を出て、ハンドルを片手に、義理の父と母に電話で知らせる。
「まずは私が見に行きます。病院で状況を見て、すぐに連絡します」
七十も後半を過ぎた義父の運転を心配していた。病院までは片道二時間、しかも夜の高速道路。「容態急変」の言葉の意味もわからずに。
間髪入れずに妹の茉奈(まな)に電話をかける。出て。お願いだから出て。暗い田舎道。病院までは、どんなに急いでも一時間はかかる。何事もなく、最速で到着しなければ。ハンドルを持つ手が、全身が、震えて止まらない。安全運転に足る正気を保たなければ。茉奈、お願いだから出て。
「もしもし」
繋がった。暗い車内に、遠く実家を纏った茉奈の声が響いた。茉奈と父の声に支えられて、全身の震えは、少しずつ少しずつ収まっていった。
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病院の暗い廊下に、心拍を模した電子音が鳴り響いている。慌ただしいナースステーションから、看護師さんがひとり飛び出し、駆け寄ってくる。すぐに状況説明が始まった。
22時20分頃。見回りの看護師さんが目を覚ましていた夫・奏(そう)くんに声をかけた。「痰がつまる」との訴えに、痰吸入器を取りにベッドを離れた。戻ってくると、彼は吐血していた。「血が、血が」。そう発した直後に、目が反転した。
大動脈が破裂した。
そこから心肺蘇生(胸骨の圧迫)を行なっている。これを続けることでのみ、「心臓が動いている」状態が保たれている。胸骨の圧迫を続ければ、破裂した箇所から血液が体内に出続ける。肋骨などにも損傷が生じるかもしれない。
家族のみが、この心肺蘇生を「止める」決定ができる。
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暗い廊下の一番奥、その明るさに、吸い込まれていく。真向かいのナースステーションと開かれた個室を、慌ただしく行き交う看護師さんたち。
緊迫のバリアに、入り口からたったの一歩で、立ちすくんでいた。
胸骨圧迫をする先生の動きに、上下する肉体が見えた。医療器具や行き交う看護師さんたちで、その顔は見えない。先生が私の存在に気づいた。目が合ったその一瞬、時が止まった。パン、と、音がしたような気がして、再びすべてが動き出した。胸骨の圧迫が続き、枕元にある、血の赤色で満杯になろうボトルに目が止まった。「すでに二本目で、それだけの出血が進行しています」、とどこからか誰かの声がした。
立ちすくんだまま、言葉も考えも感情も無かった。
今ここで、なにがおきているのか。なにがおころうとしているのか。
ただ目の前にしている。ただ刺激に晒されている。ただ、それだけだった。
「どうしますか?」
看護師さんの静かな声がする。固まった視線のままで、何度かの呼吸の後、頭を下げた。
「夫の両親が向かっています。到着まで、心肺蘇生を続けてください。お願いします。」
急性大動脈解離でこの病院に緊急搬送されてきたのは、ちょうど一ヶ月前の八月一日のことだった。8時間の緊急手術の後、術後悪性高熱症を発症し、危険な状態が続いた。様々な合併症に翻弄されながらも少しずつ回復を遂げ、二週間目にはICUから個室へ、そして個室から一般病棟へ移る話が、一ヶ月の節目であるこの日の夕方に出たところだった。
幼顔に眼鏡の先生の頭が、上下運動を繰り返す。交代はするのだろうか。でなければ、二時間半以上も心肺蘇生を続けてもらうことになる。見込みがないのに。
それでも、義父母が対面するまでは「生きている」という事実を残したかった。絶対に。「生きている」という事実の中で、ひとり息子に会って欲しかった。
「分かりました。続けます。到着されたらお知らせください」
深く頭を下げる以外、何が出来たというのだろう。
義父母はすでに病院へと向かっていた。あと一時間ほどで到着するだろうか。
23:50
暗いラウンジでひとり、父に再び電話をかけた。事の顛末を端的に伝える。
「これで良かったんだよね?」
義父母が到着するまで心肺蘇生を続ける。迷いなんてただの一ミリも無かったけれど、誰かに、父に、「良い」って言って欲しかった。
「それが良いと思うよ」
親という立場からのその言葉に、呼吸が少し楽になった気がした。
茉奈にLineをする。
「ダメみたいだ」
それだけ送ると、あとはもうずっと、病院の駐車場に入る通りを見下ろしていた。義父母の車の姿が見えるその瞬間、ただそれだけを、待っていた。